井上靖原作「オリーブ地帯」21
翌日椎葉は遅くまで眠った。
目が覚めた時は、宿直室には誰も居なかった。
幾つかの空っぽの寝台が、毛布を乱したまま口をあけている。
時計を見ると9時である。新聞社は他の会社に比べると朝は遅いが、それでも9時と言うと、早出の連中がそろそろ姿を見せ始まる頃である。
胸の中に傷の痛みは、昨日ほど直接ではない。
一夜過ぎたということで、幾らか自分を突き放して見られるようになっている。
昨日は叔母の家で随分醜態だったと思う。京子にさえ見事に見破られていたのだからな。
そんなことを思い出しながら、椎葉は宿直室と同じ階の洗面所で顔を洗い、髭を剃り、それから地下の食堂へ降りて行った。
朝食を済ますと、編集局へは上がらず新聞を持って社の横手の行きつけの喫茶店へ行った。
この喫茶店だけが、朝早くから珈琲を飲ませてくれる。
店内には誰も居ない。無愛想だが根は人のいい五十年配の主人が、
「よう」
と、椎葉の顔を見ると、どちらが客だかわからないことを言った。
「珈琲をくれ」
「よっしゃ」
椎葉はいつも他社の新聞から先に開いて行く。
自分のところの新聞は、前夜刷り上がりを見ているからである。
併し今朝はいつもと違って、自分の社の新聞にまずざっと目を通した。
昨日早く退けて、どんな新聞が作られているか知らなかったからである。
自分の社の新聞と、他社の新聞とを比較するこの僅かな時間は、新聞記者が一番新聞記者らしい眼をする時である。競争の結果が、はっきりそこに現れているからである。
抜いている時もあり、抜かれている時もある。
椎葉が珈琲を飲み終わり、立ち上がろうとした時、部長の時津が入って来た。
体格は貧弱で、風采も上がらず、どう見ても大新聞の社会部長といったタイプではないが、椎葉はこの四十五歳の先輩から沢山のものを学んでいた。
新聞社で、どうしても自分が適わないと思うのは、この人物である。
風采同様、新聞記者としての動きも派手ではないが、執拗に事件を追いかけて行き、とことんまで記事にして行く粘りはたいしたものである。
どんな事件でも彼の手にかかると、骨までしゃぶられてしまう感じだった。
「誰かを、九州にやりたいんだがね」
彼は、挨拶抜きに椎葉に言った。
椎葉は再び時津と一緒に窓際の椅子に腰を降ろした。
「君が昨日社を退けてから、政治部から電話がかかってね。大館三平と非常に親しくしている佐倉伸三という男が明日の、つまり昨夜の電話では明後日だがね、明日の昼の飛行機で九州へ飛ぶと言うんだ」
大館三平というのは、保守系の目下一番大きい政党の幹部で、大臣にこそならないが、一口に言って党に大きい発言力を持っている人物だった。
この人の行動は、ここ半月程、各新聞社から注目されている。
と、いうわけは、彼が現在全国民の注目を集めているある大きい政治献金事件に関係している疑いが濃厚であるからである。
新聞は毎日、この事件を取り上げている。
「政治部からは、単なる情報として通知してきたんだがね、僕は一応誰かをつけてみた方がいいかと思うんだがね」
時津は抑揚のない口調で、ボソボソと言った。
この場合に限らず、どんな大事件の場合でも彼の口調からは情熱というものは感じられない。
「そりゃあ、晴れかをつけておくに越したことはないでしょうが、それにしても、その佐倉という男はどういう人物です?」
「知らんね。大館のところへ出入りしている男らしい。勿論、その男の九州行きが大館に関係していることかどうかは判らんがね。誰をやる?」
時津は言った。
彼はもう腹の中では、誰かを九州にやることに決めているらしかった。
「さあ」
椎葉は考えていたが、その時、ふと、自分が行ってみようかと思った。
椿靖子は昨夜博多に発った筈である。
椿靖子の居る同じ博多の土を踏み、同じ空気を吸うことを考えると、椎葉は急に自分がその役を買って九州に行ってみたくなった。
「僕ではいけませんかね」
椎葉は真顔で言った。
「君?君が行きたいのか」
「行けたら行ってみたいんです。大分東京を離れていないので、他の土地の空気を吸ってみたいんです」
「物見遊山に行くようなことを言うなよ」
「結局そうなるでしょう。大館は重大な用件なら自分で行く男ですよ。それに秘密主義の男ですからね。めったに一身上のことで他人を使いませんよ」
「そりゃあ、そうだろう」
「まあ、結果は遊びに行ったことになりますな」
「じゃあ、遊びに行って来い」
時津は笑いながら、併し冗談とは違った口調で言った。
そして、この問題はこれで終わってしまったという風に、
「少し雲って来やがったな」
と、窓から往来の方へゆっくりと視線を投げた。
目が覚めた時は、宿直室には誰も居なかった。
幾つかの空っぽの寝台が、毛布を乱したまま口をあけている。
時計を見ると9時である。新聞社は他の会社に比べると朝は遅いが、それでも9時と言うと、早出の連中がそろそろ姿を見せ始まる頃である。
胸の中に傷の痛みは、昨日ほど直接ではない。
一夜過ぎたということで、幾らか自分を突き放して見られるようになっている。
昨日は叔母の家で随分醜態だったと思う。京子にさえ見事に見破られていたのだからな。
そんなことを思い出しながら、椎葉は宿直室と同じ階の洗面所で顔を洗い、髭を剃り、それから地下の食堂へ降りて行った。
朝食を済ますと、編集局へは上がらず新聞を持って社の横手の行きつけの喫茶店へ行った。
この喫茶店だけが、朝早くから珈琲を飲ませてくれる。
店内には誰も居ない。無愛想だが根は人のいい五十年配の主人が、
「よう」
と、椎葉の顔を見ると、どちらが客だかわからないことを言った。
「珈琲をくれ」
「よっしゃ」
椎葉はいつも他社の新聞から先に開いて行く。
自分のところの新聞は、前夜刷り上がりを見ているからである。
併し今朝はいつもと違って、自分の社の新聞にまずざっと目を通した。
昨日早く退けて、どんな新聞が作られているか知らなかったからである。
自分の社の新聞と、他社の新聞とを比較するこの僅かな時間は、新聞記者が一番新聞記者らしい眼をする時である。競争の結果が、はっきりそこに現れているからである。
抜いている時もあり、抜かれている時もある。
椎葉が珈琲を飲み終わり、立ち上がろうとした時、部長の時津が入って来た。
体格は貧弱で、風采も上がらず、どう見ても大新聞の社会部長といったタイプではないが、椎葉はこの四十五歳の先輩から沢山のものを学んでいた。
新聞社で、どうしても自分が適わないと思うのは、この人物である。
風采同様、新聞記者としての動きも派手ではないが、執拗に事件を追いかけて行き、とことんまで記事にして行く粘りはたいしたものである。
どんな事件でも彼の手にかかると、骨までしゃぶられてしまう感じだった。
「誰かを、九州にやりたいんだがね」
彼は、挨拶抜きに椎葉に言った。
椎葉は再び時津と一緒に窓際の椅子に腰を降ろした。
「君が昨日社を退けてから、政治部から電話がかかってね。大館三平と非常に親しくしている佐倉伸三という男が明日の、つまり昨夜の電話では明後日だがね、明日の昼の飛行機で九州へ飛ぶと言うんだ」
大館三平というのは、保守系の目下一番大きい政党の幹部で、大臣にこそならないが、一口に言って党に大きい発言力を持っている人物だった。
この人の行動は、ここ半月程、各新聞社から注目されている。
と、いうわけは、彼が現在全国民の注目を集めているある大きい政治献金事件に関係している疑いが濃厚であるからである。
新聞は毎日、この事件を取り上げている。
「政治部からは、単なる情報として通知してきたんだがね、僕は一応誰かをつけてみた方がいいかと思うんだがね」
時津は抑揚のない口調で、ボソボソと言った。
この場合に限らず、どんな大事件の場合でも彼の口調からは情熱というものは感じられない。
「そりゃあ、晴れかをつけておくに越したことはないでしょうが、それにしても、その佐倉という男はどういう人物です?」
「知らんね。大館のところへ出入りしている男らしい。勿論、その男の九州行きが大館に関係していることかどうかは判らんがね。誰をやる?」
時津は言った。
彼はもう腹の中では、誰かを九州にやることに決めているらしかった。
「さあ」
椎葉は考えていたが、その時、ふと、自分が行ってみようかと思った。
椿靖子は昨夜博多に発った筈である。
椿靖子の居る同じ博多の土を踏み、同じ空気を吸うことを考えると、椎葉は急に自分がその役を買って九州に行ってみたくなった。
「僕ではいけませんかね」
椎葉は真顔で言った。
「君?君が行きたいのか」
「行けたら行ってみたいんです。大分東京を離れていないので、他の土地の空気を吸ってみたいんです」
「物見遊山に行くようなことを言うなよ」
「結局そうなるでしょう。大館は重大な用件なら自分で行く男ですよ。それに秘密主義の男ですからね。めったに一身上のことで他人を使いませんよ」
「そりゃあ、そうだろう」
「まあ、結果は遊びに行ったことになりますな」
「じゃあ、遊びに行って来い」
時津は笑いながら、併し冗談とは違った口調で言った。
そして、この問題はこれで終わってしまったという風に、
「少し雲って来やがったな」
と、窓から往来の方へゆっくりと視線を投げた。
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