異説「本能寺の変」!黒田官兵衛説
人気の大河ドラマ「天地人」で先週「本能寺の変」が取り扱われ吉川晃司演じる織田信長が明智光秀の謀反により49年の生涯を閉じました。
ドラマの方では上杉家が主題のストーリーなので「本能寺の変」自体に目新しい脚色は無くサラリと事件を紹介した程度でした。
「歴史」に「謎」はつきものですが、この「本能寺の変」ほど各説が誠しやかに飛び交う事件も珍しく主だった説には
明智光秀の
・野望説・・・近年の作品では余り取り上げられなくなりましたが以前は主流。
・怨恨説・・・現在では主流となっており今回の「天地人」他「巧妙が辻」「秀吉」など大河でも主流。
・焦慮説・・・佐久間信盛・林秀貞・安藤守就といった重臣が大量追放されていることに焦りを感じたと言う説。
・ノイローゼ説・・・多岐に及ぶ仕事におわれた光秀のノイローゼによる説、大河「信長 KING OF ZIPANGU」で取り扱われた。
・朝廷説・・・・朝廷をも恐れぬ信長の前に天下統一後に自分達も足利将軍同様の運命を辿るのではと懸念した正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆による関与。
事実、安土城天守閣の隣りには新しい朝廷御所が造られており信長は光秀に命じて朝廷に早く引っ越して来る様に説得させていたが難航していた。理由の一つとして新しい御所は安土城の監視下に置かれ出入り口として御所正面の他に天守閣からのは中空の渡り廊下より全体を見渡せる様に大階段が設置され朝廷の権威を大きく傷つける物であった為、朝廷は自らの保身の為に光秀に「将軍職」と引き換えに信長を討つ様に命じたと、言われる。
朝廷説は稀代の英雄「信長」を天皇家が謀をして抹殺し、しかも暗殺者「光秀」との約束も保護にし、あろうことか安土城に火をかける暴虐ぶりに皇室のイメージ低下が懸念される為か、または圧力かドラマ化はされていない。
朝廷は以前にも平清盛ら平氏の台頭を恐れた後白河法皇らが木曽義仲を利用し今度は義仲の台頭を恐れ源頼朝に命じて義仲を討たせた疑惑もあります。こっちの方は大河「義経」でも取り上げられました。
私も朝廷説には非常に関心を持っています。
・足利義昭説・・・自分を追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。まあ・・これは聡明な光秀ですから無いとは思いますが足利将軍の恨みの深さを考えれば無きにしも非ず・といった所か・・・。
・イエズス会説・・・イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。当時のイエズス会にそれ程の力も無く、代わった秀吉は「バテレン禁止令」を出しているので・そりゃないか!?と思うのですが光秀の天下なら有ったかも・・。
・徳川家康説・・・天海僧正(家康の参謀を務めた人物)=光秀説が登場する非常に興味深い説。
信長がもっとも恐れていた武田氏の滅亡により国境を接していた家康の利用価値が無くなったため(北条氏は既に信長に従属していた)信長による暗殺を恐れた家康が光秀を焚きつけて逆に信長暗殺をもくろんだとされる。
先の怨恨説で紹介した大河ドラマ「秀吉」でも家康が光秀にプレッシャーをかけているシーンが登場します。
いずれにしても家康は正妻の築山、嫡男の信康を信長の命によって命を奪われた恨みもあり、このまま何の抵抗も出来ないまま没落または淘汰されるなら・・・と、いかに温厚で知られる家康でも暗殺を考えるのは当然かも知れません。
・羽柴秀吉説・・・信長の死の報をいち早く入手し備中(今の岡山県総社市)から大阪までスムーズに「大返し」出来た事前に変を知っていたとする見方もある。(関東で上杉と対峙していた滝川一益は大返ししようとした際に同盟の北条氏に攻められ敗走し領地を失った)
また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い。
他にも
堺の豪商(または千利休)説
毛利輝元(あるいは小早川隆景)説
朝廷と羽柴秀吉の共謀説
長曾我部元親説
島津氏関与説
・・・・・などなど・・非常に謎の多い事件ですが、ここでコトッチも一つ新説を披露します。
それは、「黒田官兵衛」説です。
黒田官兵衛と言えば羽柴秀吉の軍師として非常に能力が高かった人物ですが晩年は何故か中央から遠ざけられています。
「黒田官兵衛説」としてあげますと
①動機
黒田官兵衛は元々は浪人であったが父、重隆と共に彼らの能力を認めた西播の大名小寺政職によって家臣に登用され更に親子の能力を認めた政職は彼らを家老職に引き上げ、姫路城代を任せ、さらに小寺の苗字を与えその子「官兵衛」には政職は自らの姪を妻とさせるなど厚遇していた。長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価した官兵衛は主君・政職に織田家への臣従を勧め、その後「秀吉」に登用されています。
しかし天正6年(1578年)に荒木村重が摂津国有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)元の主君小寺政職も信長に反旗を翻し織田信忠によって討伐されています。
官兵衛自身も荒木村重の説得に単身有岡城に赴いた際捕縛され1年の長きに亘って投獄されていました。
投獄中に信長の下へ人質として預けてあった嫡男・松寿丸(後の黒田長政)が信長に殺されたと悲観していましたが、(事実信長は孝高の嫡男・松寿丸の殺害を秀吉に命じた。)竹中半兵衛の気転により秀吉に偽の首を進呈させ、松寿丸の命は助けられ。この後、助け出された官兵衛はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。
このように自分達家族を見出してくれた恩人でもある主君「小寺政職」討伐や投獄中の嫡男「松寿丸」殺害への恨み(先にも述べたように実際には殺害されておりません。)信長の類まれなる残忍性を目の当たりに見てきた黒田官兵衛なら、その機会を考えていても不思議ではない様に思われます。
②準備
本能寺の変が天正10年6月2日(1582年6月21日)に起こる前の秀吉の戦い方にいささか不可解な点が無きにしも非ず・・・。
それは天正6年(1578年)三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻した事に端を発した播磨の各大名の反乱も天正8年(1580年)に収まった後の戦い。
天正9年(1581年)因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。
また天正10年(1582年)には毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、水攻めにした。
この二つの戦いは、明らかに兵力の温存を図った戦い方。
勿論、対毛利氏との戦いが長丁場になるとの予測の上での事とは思われるが、来るべき戦いの前に兵力の消耗を抑えたとも考えられないだろうか!?
③証言
本能寺の変で織田信長が死去したとき、官兵衛は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後官兵衛の智謀を恐れるようになったという。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言ったという。
と、このように「本能寺の変」以前は黒田官兵衛を重用していた秀吉が「本能寺の変」以降、黒田官兵衛を恐れたのは事実の様で秀吉は何らかの事実を知っていたのではないか?とも思われる。
④実行
さて、ではどの様にして遥か京都にいる光秀に謀反をおこさせたか?
私は二つのパターンを推理します。
まず一つめは・・・
聡明で忠実な重臣「光秀」を巧みに利用した。
信長のみならず天下統一後の世界を誰が治めるか?と、言う事になると答えは明確ズバリ一族でしょう!
その一族を支えるのが家来衆。実際信濃攻略に於ても総大将は嫡男「織田信忠」滝川一益はその補佐官と言った位置。
「変」のおかげで実行されませんでしたが 四国征伐も総大将には信長の三男「神戸信孝」(後の織田信孝)補佐官として丹羽長秀・津田信澄ら。
その中で大名である徳川家は武功も抜群ゆえ恩賞も多く与えなければならない大大名になるのは必然で天下統一後は一族を脅かす存在になるはず。
その事は一族や家臣団の中では暗黙の内に周知の事実であったに違いないはず。
後は「信長様」の命令をまつのみ!?
御存知の通り織田信長は自分の意見を聞き返されたり、意見されたりするのが大嫌いな人物。
その点を考慮して光秀に間違った情報を提供してやる。
つまり「家康を討て!敵は本能寺にあり!」と・・・
こういった偽の書状は戦国時代多く行きかっていまして大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出された伊達政宗は証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の鶺鴒(セキレイ)の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た話は有名。
つまり光秀は間違えて主君「織田信長」を討ってしまったことになり絶対権力を持つ独裁者「信長」の、いかにも哀れな末路か・・・。
そして二つ目は・・・
これこそが「本能寺の変」の真実では!と、思っているのですが
光秀軍の中に「黒田官兵衛」直属の「織田信長暗殺部隊」を潜り込ませておく方法。
羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する光秀軍は1万3千。
当時の交通事情から言うとその列は長きに及んだと、思われる。
列の後方で騒ぎが起きたとしても光秀にはナカナカ解る筈もなく、ましてや京都ともなれば尚の事。
足軽ふぜいが主君「織田信長」の宿など知る由もなく、よしんば知らされていたとしても名前だけでどの建物かは解らないはず。
また住み慣れた京の都から離れ田舎へ戦をしに行く。しかも居城も無い有様 。
足軽の中には気の立っている者も多かったはず。
そんな中、京都の思い出に立派な御屋敷の侍女目当てに夜這いをしかける事などを持ちかけ本能寺に潜入させる。当然、本能寺側では警備が厳重に行なわれているので騒ぎになるはず。
足軽だけなら警備の侍に蹴散らされて御仕舞いかも知れませんが、ここで同行していた特殊部隊が応戦!
本能寺内部ではチョッとした小競り合いになります。
そこで、まだ内部で戦っていない特殊部隊が、屋敷内で仲間が襲われている!
と、救援を要請!
更にこれに呼応して各足軽隊に潜入していた特殊部隊達が仲間を扇動!!
当事者達は知らないままクーデターの張本人に。
この場合「信長」の首を取るリスクを犯すよりも確実に「信長」を亡き者にすれば良い訳で屋敷に火を放てば確率も上がるはず。
この特殊部隊の中に黒田八虎と呼ばれる武将、後藤又兵衛や母里 友信(もり とものぶ)がいれば暗殺は確実!
万が一に討ちもらしたとしても、首謀者に祀り上げられた「光秀」が全力をあげて何とかするはず!・・そう彼にはもう申し開きも出来ないのですから・・・。
誤ってでも信長を討ってしまった光秀は当然信長政権下には居れないので必然的に嫡男である信忠を早急に討っておかなければならない。
こうして日頃は用意周到なはずの光秀は、何の準備も出来ないまま反逆者の汚名を着せられてしまい
全て計画通りの秀吉軍によって打ち負かされるのです。
はてさて、実際はどうであったか定かでは有りませんが色々調べて考えてみるのも歴史の楽しみ方(^^)
そもそも歴史そのものが勝者によって都合よく作り変えられた歴史であって我々が定説として良く知っている歴史ですら信憑性に欠けると言っても過言ではないように思います。
色々な立場に立って当時を考える。
歴史とは答えのないクイズなのではないでしょうか!?
ドラマの方では上杉家が主題のストーリーなので「本能寺の変」自体に目新しい脚色は無くサラリと事件を紹介した程度でした。
「歴史」に「謎」はつきものですが、この「本能寺の変」ほど各説が誠しやかに飛び交う事件も珍しく主だった説には
明智光秀の
・野望説・・・近年の作品では余り取り上げられなくなりましたが以前は主流。
・怨恨説・・・現在では主流となっており今回の「天地人」他「巧妙が辻」「秀吉」など大河でも主流。
・焦慮説・・・佐久間信盛・林秀貞・安藤守就といった重臣が大量追放されていることに焦りを感じたと言う説。
・ノイローゼ説・・・多岐に及ぶ仕事におわれた光秀のノイローゼによる説、大河「信長 KING OF ZIPANGU」で取り扱われた。
・朝廷説・・・・朝廷をも恐れぬ信長の前に天下統一後に自分達も足利将軍同様の運命を辿るのではと懸念した正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆による関与。
事実、安土城天守閣の隣りには新しい朝廷御所が造られており信長は光秀に命じて朝廷に早く引っ越して来る様に説得させていたが難航していた。理由の一つとして新しい御所は安土城の監視下に置かれ出入り口として御所正面の他に天守閣からのは中空の渡り廊下より全体を見渡せる様に大階段が設置され朝廷の権威を大きく傷つける物であった為、朝廷は自らの保身の為に光秀に「将軍職」と引き換えに信長を討つ様に命じたと、言われる。
朝廷説は稀代の英雄「信長」を天皇家が謀をして抹殺し、しかも暗殺者「光秀」との約束も保護にし、あろうことか安土城に火をかける暴虐ぶりに皇室のイメージ低下が懸念される為か、または圧力かドラマ化はされていない。
朝廷は以前にも平清盛ら平氏の台頭を恐れた後白河法皇らが木曽義仲を利用し今度は義仲の台頭を恐れ源頼朝に命じて義仲を討たせた疑惑もあります。こっちの方は大河「義経」でも取り上げられました。
私も朝廷説には非常に関心を持っています。
・足利義昭説・・・自分を追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。まあ・・これは聡明な光秀ですから無いとは思いますが足利将軍の恨みの深さを考えれば無きにしも非ず・といった所か・・・。
・イエズス会説・・・イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。当時のイエズス会にそれ程の力も無く、代わった秀吉は「バテレン禁止令」を出しているので・そりゃないか!?と思うのですが光秀の天下なら有ったかも・・。
・徳川家康説・・・天海僧正(家康の参謀を務めた人物)=光秀説が登場する非常に興味深い説。
信長がもっとも恐れていた武田氏の滅亡により国境を接していた家康の利用価値が無くなったため(北条氏は既に信長に従属していた)信長による暗殺を恐れた家康が光秀を焚きつけて逆に信長暗殺をもくろんだとされる。
先の怨恨説で紹介した大河ドラマ「秀吉」でも家康が光秀にプレッシャーをかけているシーンが登場します。
いずれにしても家康は正妻の築山、嫡男の信康を信長の命によって命を奪われた恨みもあり、このまま何の抵抗も出来ないまま没落または淘汰されるなら・・・と、いかに温厚で知られる家康でも暗殺を考えるのは当然かも知れません。
・羽柴秀吉説・・・信長の死の報をいち早く入手し備中(今の岡山県総社市)から大阪までスムーズに「大返し」出来た事前に変を知っていたとする見方もある。(関東で上杉と対峙していた滝川一益は大返ししようとした際に同盟の北条氏に攻められ敗走し領地を失った)
また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い。
他にも
堺の豪商(または千利休)説
毛利輝元(あるいは小早川隆景)説
朝廷と羽柴秀吉の共謀説
長曾我部元親説
島津氏関与説
・・・・・などなど・・非常に謎の多い事件ですが、ここでコトッチも一つ新説を披露します。
それは、「黒田官兵衛」説です。
黒田官兵衛と言えば羽柴秀吉の軍師として非常に能力が高かった人物ですが晩年は何故か中央から遠ざけられています。
「黒田官兵衛説」としてあげますと
①動機
黒田官兵衛は元々は浪人であったが父、重隆と共に彼らの能力を認めた西播の大名小寺政職によって家臣に登用され更に親子の能力を認めた政職は彼らを家老職に引き上げ、姫路城代を任せ、さらに小寺の苗字を与えその子「官兵衛」には政職は自らの姪を妻とさせるなど厚遇していた。長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価した官兵衛は主君・政職に織田家への臣従を勧め、その後「秀吉」に登用されています。
しかし天正6年(1578年)に荒木村重が摂津国有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)元の主君小寺政職も信長に反旗を翻し織田信忠によって討伐されています。
官兵衛自身も荒木村重の説得に単身有岡城に赴いた際捕縛され1年の長きに亘って投獄されていました。
投獄中に信長の下へ人質として預けてあった嫡男・松寿丸(後の黒田長政)が信長に殺されたと悲観していましたが、(事実信長は孝高の嫡男・松寿丸の殺害を秀吉に命じた。)竹中半兵衛の気転により秀吉に偽の首を進呈させ、松寿丸の命は助けられ。この後、助け出された官兵衛はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。
このように自分達家族を見出してくれた恩人でもある主君「小寺政職」討伐や投獄中の嫡男「松寿丸」殺害への恨み(先にも述べたように実際には殺害されておりません。)信長の類まれなる残忍性を目の当たりに見てきた黒田官兵衛なら、その機会を考えていても不思議ではない様に思われます。
②準備
本能寺の変が天正10年6月2日(1582年6月21日)に起こる前の秀吉の戦い方にいささか不可解な点が無きにしも非ず・・・。
それは天正6年(1578年)三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻した事に端を発した播磨の各大名の反乱も天正8年(1580年)に収まった後の戦い。
天正9年(1581年)因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。
また天正10年(1582年)には毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、水攻めにした。
この二つの戦いは、明らかに兵力の温存を図った戦い方。
勿論、対毛利氏との戦いが長丁場になるとの予測の上での事とは思われるが、来るべき戦いの前に兵力の消耗を抑えたとも考えられないだろうか!?
③証言
本能寺の変で織田信長が死去したとき、官兵衛は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後官兵衛の智謀を恐れるようになったという。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言ったという。
と、このように「本能寺の変」以前は黒田官兵衛を重用していた秀吉が「本能寺の変」以降、黒田官兵衛を恐れたのは事実の様で秀吉は何らかの事実を知っていたのではないか?とも思われる。
④実行
さて、ではどの様にして遥か京都にいる光秀に謀反をおこさせたか?
私は二つのパターンを推理します。
まず一つめは・・・
聡明で忠実な重臣「光秀」を巧みに利用した。
信長のみならず天下統一後の世界を誰が治めるか?と、言う事になると答えは明確ズバリ一族でしょう!
その一族を支えるのが家来衆。実際信濃攻略に於ても総大将は嫡男「織田信忠」滝川一益はその補佐官と言った位置。
「変」のおかげで実行されませんでしたが 四国征伐も総大将には信長の三男「神戸信孝」(後の織田信孝)補佐官として丹羽長秀・津田信澄ら。
その中で大名である徳川家は武功も抜群ゆえ恩賞も多く与えなければならない大大名になるのは必然で天下統一後は一族を脅かす存在になるはず。
その事は一族や家臣団の中では暗黙の内に周知の事実であったに違いないはず。
後は「信長様」の命令をまつのみ!?
御存知の通り織田信長は自分の意見を聞き返されたり、意見されたりするのが大嫌いな人物。
その点を考慮して光秀に間違った情報を提供してやる。
つまり「家康を討て!敵は本能寺にあり!」と・・・
こういった偽の書状は戦国時代多く行きかっていまして大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出された伊達政宗は証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の鶺鴒(セキレイ)の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た話は有名。
つまり光秀は間違えて主君「織田信長」を討ってしまったことになり絶対権力を持つ独裁者「信長」の、いかにも哀れな末路か・・・。
そして二つ目は・・・
これこそが「本能寺の変」の真実では!と、思っているのですが
光秀軍の中に「黒田官兵衛」直属の「織田信長暗殺部隊」を潜り込ませておく方法。
羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する光秀軍は1万3千。
当時の交通事情から言うとその列は長きに及んだと、思われる。
列の後方で騒ぎが起きたとしても光秀にはナカナカ解る筈もなく、ましてや京都ともなれば尚の事。
足軽ふぜいが主君「織田信長」の宿など知る由もなく、よしんば知らされていたとしても名前だけでどの建物かは解らないはず。
また住み慣れた京の都から離れ田舎へ戦をしに行く。しかも居城も無い有様 。
足軽の中には気の立っている者も多かったはず。
そんな中、京都の思い出に立派な御屋敷の侍女目当てに夜這いをしかける事などを持ちかけ本能寺に潜入させる。当然、本能寺側では警備が厳重に行なわれているので騒ぎになるはず。
足軽だけなら警備の侍に蹴散らされて御仕舞いかも知れませんが、ここで同行していた特殊部隊が応戦!
本能寺内部ではチョッとした小競り合いになります。
そこで、まだ内部で戦っていない特殊部隊が、屋敷内で仲間が襲われている!
と、救援を要請!
更にこれに呼応して各足軽隊に潜入していた特殊部隊達が仲間を扇動!!
当事者達は知らないままクーデターの張本人に。
この場合「信長」の首を取るリスクを犯すよりも確実に「信長」を亡き者にすれば良い訳で屋敷に火を放てば確率も上がるはず。
この特殊部隊の中に黒田八虎と呼ばれる武将、後藤又兵衛や母里 友信(もり とものぶ)がいれば暗殺は確実!
万が一に討ちもらしたとしても、首謀者に祀り上げられた「光秀」が全力をあげて何とかするはず!・・そう彼にはもう申し開きも出来ないのですから・・・。
誤ってでも信長を討ってしまった光秀は当然信長政権下には居れないので必然的に嫡男である信忠を早急に討っておかなければならない。
こうして日頃は用意周到なはずの光秀は、何の準備も出来ないまま反逆者の汚名を着せられてしまい
全て計画通りの秀吉軍によって打ち負かされるのです。
はてさて、実際はどうであったか定かでは有りませんが色々調べて考えてみるのも歴史の楽しみ方(^^)
そもそも歴史そのものが勝者によって都合よく作り変えられた歴史であって我々が定説として良く知っている歴史ですら信憑性に欠けると言っても過言ではないように思います。
色々な立場に立って当時を考える。
歴史とは答えのないクイズなのではないでしょうか!?
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